横浜出身、川崎在住の裕美・ルミィヤンツェヴァは音楽、語学、研鑚が大好きなラグタイム&ジャズ・シンガー。十ヶ国語以上を学び、世界数十ヶ国、数百都市、数千町村を訪問          
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10/22
日本最古のピアノにびっくり!!!
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http://plaza.rakuten.co.jp/ragtimema/

自分の人生にはいつもピアノが付き物。
幼少のときからずっとずっと奏でていたピアノ。
ピアノでは挫折したものの、
ピアノと自分は無論切り離すことなどできなかった。

そんな謎を自分と大変つながりの深い長崎の地で追ってみた。
すると、驚くことに日本最古のピアノは、
ドイツよりオランダ経由で長崎に運び込まれ、
現在も山口県萩市にある熊谷美術館にあるということがわかった。

この美術館には萩藩御用商人であった熊谷家が
代々集めてきた美術品や文書が展示されており、
「ピアノ」は幅広く事業を展開し、長崎にも出店を持っていた
「豪商熊谷」、4代五右衛門義比が
歴史的にも文化的にも価値ある物として自負しているそうだ。
五右衛門は毛利藩所帯型御用達商人であり、
歴代熊谷家当主の中でも特に文化に明るかったらしい。

当時入国禁止を言い渡されていたドイツ貴族、シーボルトが
当時唯一入国を許可されていたオランダ人になりすまして、
自分が愛用していたピアノを日本に持ち運んだのがそもそもことの始まり。

五右衛門は、出島に出入りする蘭学者達のスポンサー的役目もしており、
とりわけ、同じ長州出身の岡研介という蘭学者に多くの援助を行っていた。岡研介はシーボルト門下のうち特にオランダ語会話に秀でた人物で、
シーボルトに面会する者は皆、研介の世話になったという。

実はこのピアノも、研介を通じて
シーボルトから五右衛門の手に渡った物だった。
そして、楽器が出島から萩へ向かった直後に、
かの有名な「シーボルト事件」が起きた。

熊谷家ではそれ以後、ピアノを人目に触れないよう、
また一切口外しないようにしていたと伝えられている。
1955年になって、再び当家でもこの楽器に光が当てられることとなり、
様々な調査が行われるようになったのだ。

しかしながら、国内ではメディアを通して
このピアノを知る人も近年増えたが、
オランダでは日蘭交渉史専門家でさえ、このピアノのことを知らない。

1999年、これをシーボルトが使用していた19世紀当時の姿に戻すようにと
オランダ人フォルテ・ピアノ修復家を萩に招き、修復作業が行われ、
日蘭交流400周年記念事業「出島の頃」というプロジェクトを中心に
「シーボルトのピアノ」に対する人々の興味も相当深まった。

このピアノが、出島で使用された様々な楽器のうちでも、
唯一現存する遺産であることから、
長崎の歴史を学ぶ上でもかなりの興味をそそられる。

五右衛門は文化愛好者であり、蘭学にも関心が深く、
シーボルトとは長崎で知り合ったらしい。
そして、彼は多数の日本工芸品をシーボルトに贈り、
そのお返しとしてシーボルト愛用のピアノを頂戴したそうだ。
それは正に彼が日本を去るときの出来事でした。

そのときの受領書には当時のピアノの総称、
「ポルトピアン(Fortepiano)」とある。
このイギリス製ピアノは、大型のフリュ―ゲルと区別して、
ターフェル・ピアノ、或いはスクエア・ピアノと呼ばれていたもので、
その共鳴版には、シーボルト直筆で次のように書かれている。
「Tot gedachtenins aan mijnen vriend Koemaya 1828 」。
(わが友熊谷への思い出に)

現在、「シーボルトのピアノ」として大切に保管されているこのピアノは
驚くことに未だ演奏可能で、イベントの際には
シーボルトが弾いていた当時と変わらぬ美しい音色を生み出す。

現代ピアノは、総鉄フレーム、鋼鉄線、交差弦、
ダブル・アクションが典型とされるが、
「シーボルトのピアノ」は、木製フレーム、鉄と真鍮の弦、
平行の張り方、シングル・アクションが特徴である。

現代ピアノの開発は、このピアノ以後の19世紀中頃に急速に行われ、
1822年にエラールがダブル・アクションを完成、
1835年頃には鋼鉄線が作られるようになった。
1840~50年代にはアメリカのピアノ産業界で
交差弦と総鉄フレームの開発が進み、
明治維新の頃(19世紀後)、一般化し定着した。

「シーボルトのピアノ」は、ロンドン、
William Rolfe & Sons のスクエア・ピアノで
音域は5オクターブ半、横幅168?、奥行き62?。
当時の手紙には「三人舁位」
(3人で担いで運べるくらい)と記されている。

製造年代については1806年頃という説もあるが、実はもう少し新しい。
製造番号が打たれていないので明確なことは言えないが、
1933年にイギリスで出版された Rosamond E.M.Harding の本によれば 、
William Rolfe & Sons の社名は1814年以後からで、
それ以前は Sons がなくて William Rolfe だけであったとされている。

従って、シーボルト来日が1823年であったことから、
このピアノの製造年代は1814年~1823年の間ということになる。
おそらく、シーボルトが1822年にヨーロッパを出発する直前に
購入した物なのであろう。

1796年2月17日から1866年10月18日を生き抜いた
ドイツの医師、博物学者であったシーボルトの本名は
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(Philipp Franz von Siebold)。

正式名フォン・シーボルトからもわかるように、
彼は貴族であり、祖父の代に称号を与えられたらしい。
当時、楽器演奏が、上流階級教養のひとつとされていたことを思えば、
シーボルトが幼少から音楽に親しんでいたということは
そう不思議ではない。
また、出島に赴くことが決まったとき、
自分の持ち物の中にピアノを入れようと決心したことも
難なく理解できる。

父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、
母はマリア・アポロニア・ヨゼファ、
神聖ローマ帝国、バイエルン州ヴュルツブルク
(現在のドイツ)のドイツ医学界名門の家庭に生まれたシーボルトは、
東洋研究を志し、1822年にハーグ(オランダ)へ赴き、
国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、
7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となった。

9月にロッテルダムから出航し、
1845年にはドイツ貴族ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、
3男2女を儲けた。

1854年に開国した日本は、1858年に日蘭通商条約を結び、
シーボルトに対する追放令も解除していた。
それを機にシーボルトは1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日、
1861年には対外交渉のための幕府顧問となった。
1862年に官職を辞して帰国、
1866年10月18日、ミュンヘンで70歳にして死去した。

知る人ぞ知る情報としては、シーボルトが、
来日直後の文政6年8月、楠本滝という女性と結婚していたこと。
http://hirokan.sakura.ne.jp/toudou/otaki.jpg
そして、シーボルトが彼女を生涯思い続けたことです。
文政10年(1827年)には娘、いねが生まれました。
http://hirokan.sakura.ne.jp/toudou/ine.jpg
彼女は後に医学の手ほどきを受け、産科医として長崎で開業しました。

逸話ではあるが、シーボルトのはとこ、
アガーテ・フォン・ジーボルト(1835~1909)は、
ブラームスの元婚約者として知られている。

当時の長崎港を賑わせたオランダ船は、
大抵初夏に入港し、秋には出航していた。
出島が忙しいのは、オランダ船入港により
様々な取引作業が行われる3ヶ月程度。
残りの9ヶ月を「出島番」として過ごさねばならなかった商館員たちは、
退屈しのぎに娯楽を必要としていたのだ。

そこに明かりを灯したのが、「音楽」という楽しみ。
色々な楽器が持ち込まれる中、
当時の人々から「洋琴」と呼ばれていたピアノも入ってきたのだ。

現在、最も人気が高い楽器として人々に愛されているピアノ。
その歴史は1700年代にさかのぼり、
楽器その物はどちらかというとフォルテ・ピアノや
ハンマー・フリューゲルに近い形や音色をしていた。

音楽をこよなく愛したシーボルト、
今日でもシーボルトが作った「日本」という曲を実際に聴くことができる。


●熊谷美術館
山口県萩市今魚店町47
0838-25-5535

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/backnum/03_autumn/yeiyo_kokoro.html

http://www3.ocn.ne.jp/%7Ekumaya/9905con.htm



これまで医者としてのシーボルトは知っていたが、
ピアノとシーボルトのつながりについて考えを巡らせたのは
今回が初めてであった。

シーボルトが何度も行き来したというライン川沿線を
私とアレェクスェイも何度も何度も行き来した。
シーボルトが日本へ旅立ったという
オランダのハーグやロッテルダムへも行っている。

そして、私とアレェクスェイが出会った場所はライン川ほとり、
億万長者であるドイツ人ピアノ収集家が開いたビア・サロン。
彼はボンに古い楽器の美術館を持っているほど、
当時の上流階級、シーボルト家との関連も
おそらく、深かった一族であろう。

そして、「シーボルトのピアノ」は私が住んでいたことのある
イギリスはロンドン製。

シーボルトのはとこと婚約していたという
ブラームスの家を私が訪れたのは単なる偶然か?
自分とアレェクスェイがドイツ人のピアノを通じて出会ったのは
昔から決まり決まっていた宿命か?

更に、「シーボルトのピアノ」は今でも私の親族が多く住む
山口県にあるという。
自分の一族をさかのぼって見ていくと著名な通訳家・翻訳家が目に付く。
彼らはもしかしたら、シーボルトの門下生だったかもしれない。

元々、私が生まれるずっとずっと前から、
ピアノという楽器は私の人生に足を踏み入れる予定であったのだろうか・・・
祖母が他界し、自分という人間のアイデンティティを探し始めたとき、
自分を作りうる全ての要素が長崎という異国情緒溢れる
歴史ある街に溶け込んでいることに驚かされる。
今日こそ、自分の体に長崎の血が騒ぐのを
強く感じたことはなかったかもしれない。


追伸:
【ケルンの水「4711」】

オーデコロンの発祥の地、ケルン発祥の香水、
グリーンとゴールドのラベルで有名なオーデコロン「4711」が、
最初に生産されたのは1709年のこと。
香水職人、ミューレンスはフランス軍占領で住所変更を命じられ、
ケルン大聖堂前に引っ越し、新住所の番号をそのまま商標にしたのだ。
これは世界最古のフレグランス・ブランドであるが、
偶然にも私の生年月日、昭和47年1月1日である。

人の人生は絶対に生まれる前から決まっているもの。
宿命を信じているのは私だけか???



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